歌う、とはどういうことか
玉木宏樹先生は、音楽を「歌う」こともテクニック、歌心もテクニック、と言われた。
最初、この言葉には面食らった。歌い方とか、歌心というのは、感性のものなのではないか、と思っていた。
「私はね、時々、ヴァイオリンを演奏していて、我ながら自分の冷徹な心にぞっとすることがあるんだ」と。
プロのヴァイオリニストとして、聴衆に感銘を受けてもらう、感動を与える、というのは当然の役目である、と考えておられた玉木先生は、歌もテクニックと断言された。
過去を繙くと、例えば、後期ロマン派以降のヴァイオリニスト達の多くは、けっこう自分勝手過ぎるほどの歌い方をしていて、かろうじて残っている録音を聴いても、うかがい知ることができる。
その反動から、よけいな感情を出さず、楽譜に書かれていることを正確無比に演奏する運動(ノイエ・ザッハリヒカイト・新即物主義)がハイフェッツやギーゼキングによって広まり、現在にまでその考え方が引き継がれている。
しかし、ノイエ・ザッハリヒカイトに関しては、時々は反対の立場の人もいる。例えば、イヴリー・ギトリスは、すべてにおいて自由である。彼はいつも、自信を持って自身を出しなさい、と言う。
ただ、現代の多くの演奏家は、ノイエ・ザッハリヒカイトに多少なりとも影響されているように思えてならない。
例えば、理想の演奏像は? と聞くと、多くの方は、楽譜をよく読んで理解し、作曲家の意図を忠実に再現すること、と言われる。勿論、それはその通りだと思うが、では、演奏家の存在価値はどこにあるのだろうか、といつも思ってしまう。
奇しくも、先日、ヴァイオリン界・音楽界の重鎮であるヴァイオリニストの德永二男さんが、このように言われた。
「あなたのモーツァルト、あなたのベートーヴェンを弾きなさい」
この短い言葉の中には、百万言にも勝る演奏行為の本質が語られているように思えてならない。
玉木先生は、また、作曲家を全能の神のようにして崇め奉ることにも反対されていた。玉木先生ご自身作曲家であるから、作曲家の実態をよく知っておられたのだろう。
極端なことをよく言われた。楽譜はメモであると。この言葉に私は100パーセント賛成するわけではないけれど、冷静になって作曲家と対峙することは必要だろうとは思った。
よく、何遍演奏しても、新しい発見がある、という話がある。だから、あの作曲家は偉大だと言う方がいる。勿論、偉大なのだが、新しい発見をしたのは、演奏家である。もしかしたら作曲家も気づいていないことを発見した、ということもあるのではないか、偉大なのは演奏家なのではないか。
ラヴェルが、演奏家から「ここは、この音ですか? あの音ですか?」と聞かれたときに、「どちらでもいい」と言ったという話を聞いたことがある。
そもそも楽曲というのは、何をもって完成と言うのだろうか。もしかしたら、完成ということはないのではないか。作曲家自身も、一応作曲したものの、まだいくらでも推敲したいところがあるのではないか。作曲家自身も究極を探しているのではないか。と思うことがある。
玉木先生はこのようなことも言われた。
『作曲家の意図を忠実に再現するというのは、演奏家の無責任のあらわれです。いい音楽かどうかを作曲家にゲタを預けるのですからね。
演奏を聴いてもらうということは人の時間を奪うことです。ましてやお金をとるならなおさらのこと、感銘を与えなければなりません。
この「感銘」というのは演奏によってしか生まれないのです。作曲家にゲタを預けても絶対に「感銘」とは関係ありません。楽譜にとらわれすぎていると、ビビッドな即興性は生まれません。ビビッドな即興性というのは、何も即興演奏を行なうことではないのです。それは常に二度とできない演奏を目指すことなのです。』
体育会系練習を否定されていた。なぜなら、そこには即興性は失われ、形骸化した音の羅列だけになり、面白くも何ともないことになるから、と。
そして、即興性という言葉を感激性と言い換え、感激性のない演奏なんて犯罪行為に近いと喝破されていた。
ここに至って、感激性、感銘をもたらすものとして、『歌うこと』が出てきたのである。そして、歌うことはテクニックであると言われた。歌にも法則があると。また、楽譜を読むことによって生まれてくるものがあると言われた。
そういえば、以前、世界的なヴァイオリニストのパート譜を見せてもらったことがあるが、そこには、ボーイングやフィンガリングだけでなく、ポルタメントも書かれていた。
玉木先生は、メロディを歌うためには確固としたリズム感がないと表現できない、とも言われた。音楽の根源はリズムにあると言い切っても過言じゃないとも。そして、リズムがよくなれば音程もよくなると。
本来ならば、ここでその実例を出すべきなのだろうが、それは後々の楽しみにとっておきたい。
文・青木日出男