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プロローグ 何故、男たちの宴なのか

 

──町田市民ホールでのコンサートを聴かせていただきました(7月5日)。私は相模原に住んでいるので、町田市民ホールはとても親しんでいます。そこで森友さんの歌を聴いたことが何か特別な感慨を覚えます。

 

「ああ、そうでしたか。私は東海大学の学生時代、小田急で町田によく来ていたので、懐かしい感じがしますね。今日は、車で会場に入ったので、標識の『相模』とかは、懐かしかったですね。

 

僕らがよく遊んでいたのは、駅の周辺ですね。飲みに行く場面もあったり、あと買い物をよくしていました。東急ハンズはよく行きました。町田のどこ、とまでは言えませんが、町田はよく来ていました。

僕が学生時代住んでいたのは、東海大学駅前、当時、大根(おおね)と言っていた駅です。僕が在学中に東海大学前に名称が変わったんです。買い物は、本厚木か町田。でも町田が多かったですね。洋服もたいてい町田でしたよ。」

 

──ふだん器楽を聴くことが多いのですが、歌の情報量の多さに改めて感銘を受けました。

 

「いえいえ、『男たちの宴』では、逆にピアニストと、チェリストに僕の表現力は支えられています。今、僕がやっている『男たちの宴』のシリーズはピアノとチェロと歌の三本柱のスタイルで、このスタイルは、誰もどの瞬間も手が抜けない形態です。音楽としての最低必要条件を揃えているというか、それはプレイヤー自身も感じていることです。

 

ちょうど三重県の尾鷲のツアーが終わって、打ち上げで飲んでいたりしていたときのことですけど、今回チェロはマーティン・スタンツェライト(広島交響楽団首席チェロ奏者)と青弦の二人に、それぞれ三本ずつのコンサートをお願いしてやっていただいたんですけど、全公演が終わって青弦と話をしていて、自分の主張は、今までどこか控えめだったみたいなんです。全体の中の一部というか、特にやはり、元々音楽一家で家でカルテットで演奏したりというような育ち方をしてきているので。

 

全体の中の自分の役割というか、飛び出しすぎず溶け合うというか、そういう立ち位置を大事にしていたらしいんですけど、今回のツアーでは同じメニューを何回もやる、ということで、やっぱりいろいろな気づきもあったんじゃないでしょうか。 

 

彼は、“主張をする場が与えられている、それを期待されていることを凄く感じて、期待されるのであれば、その期待に対して、自分の存在をアピールしなければ”と思ったんだそうです。彼の中で一番大きかった気づきのようです。

 

『よくぞ、気づいてくれました。』(笑)。」

 

──クラシックの世界でもトリオというのは、全員が主役(ソリスト)であり、またアンサンブルの要素もありという独特な形態だと私は思うのですが、そのトリオを選ばれたのには、どのような理由が。

 

「例えば、フル・オーケストラに歌ものを重ねるというコンセプトを何度か見たことがあるんですよ。だけどもオーケストラとロック・ヴォーカリストというスタイルの中でも、やはり、行って見てみると、ドラムがいたりとかしていますが、音楽的に混ざってない気がするんです。ロックのドラムとクラシックのオーケストレーションというものにちょっと疑問を持っている。

 

ロック音楽のポピュラリティ、楽曲、そしてオーケストラ、というスタイル、つまり融合というものを目的にするのだったら、俺だったらオーケストラだけでやりたいと思う。ただ、単純に演奏スタイルを混ぜちゃうと、フル・オーケストラは単なるストリングス、つまり伴奏になってしまうと思うわけ。

 

僕らアレンジをやっていて、どんなに音を重ねていっても、ボリューム下げてしまえば、結局はスリーピース、フォーピースでやっているような、音の中に遠鳴りで弦が鳴っているような感じの作りにどうしてもなっていってしまう。

 

僕がそもそも、弦楽器に興味を持ったのは、弦楽器そのものの音色なんです。そこに好奇心を凄く持ってしまった。伴奏としての楽器として認識しているわけではない。

 

元々僕は小さい頃からピアノの音色は凄く好きだった。

そしてあるライヴハウスで、ピアノ、歌、チェロという編成の演奏を一曲だけ聴いたんです。それを見たときに、チェロ単体の音というものを初めて知ったんですよ。カルテットを聴いていたら、チェロの音色は単独では僕には聞こえてこないですね。第1ヴァイオリンの印象は凄く残るんですが、チェロの音色の印象ってそんなに強くはなかったです、僕にとっては。

 

なんですけれども、ピアノ、チェロ、歌となった瞬間、例えばイントロにまずチェロのフレーズが入ってきますよね。そこでチェロの存在感がガツンとあるわけですよ。その音域がちょうど、人間の声に似ているんですね。本当にダブルヴォーカルの移り変わりで、じゃあ、お前、イントロ歌ってよ、という感じでチェロが歌って、で僕にバトンタッチされて、途中から歌詞のないもう一本の歌が混ざり込んでくるみたいな、そういう感じを受けて、それが凄くスリリングなんですよね。

 

だから、よくフレーズを決めるときもルート(通奏低音)でただ弾くのではなくて、歌のフレーズに関連してアレンジメントして混ざってきてくれる。その抑揚であったり、ドラマチック性が曲自体の構成をもっと盛り上げる、感情的に。それは、カルテット以上の編成が多くなってくる形態で埋まってしまう音楽よりも、単独だからこそ旋律が見えてきて、だからこそメロディと絡み合う。各声部が凄くよく聞こえる。だからこそ、いい。」


(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

T-BOLANのヴォーカリストとして一世を風靡した森友嵐士さんへのインタヴューを、これから数回に亘って連載する。
 
十数年に亘って、声を失った森友さんが、復活してからの活動を見ると、明らかにクラシックの世界に近づいている。
 
それは、彼自身におけるクロスオーヴァーなのではないかと私は想像する。
 
10月26日のライヴ(STB139スイートベイジル)で、聴衆は完璧に引き込まれていた。
 
私は、前日に、日本を代表するヴァイオリニストの徳永二男さんのリサイタルを聴き、そしてこの晩。私にとっては共通の感情だった。
 
突き抜けた人に共通する何かを感じた。
訊きたいことはすべて訊いた。
 
その何かは、この連載をお読みいただけるとご理解いただけると確信している。(青木日出男)

森友嵐士 ロングインタヴュー 第1回

1965年10月30日 広島県府中市に生まれる 中学2年生の夏、自分の感性とあう音楽に出会う。 16才の時に友人からアコースティックギターを譲り受け、翌年 学園祭にて歌で自己表現する喜びを知る。東海大学に進学後、音楽サークルでバンドを組み、青木和義と出会うきっかけになるライブハウスでアルバイトを始める。

1987年青木和義とT-BOLANの前身となるバンド“プリズナー”を結成。本格的にプロを目指す。同年11月22日、Being主催の第2回BADオーディション(目黒ライブステーションで開催)でグランプリを受賞。1988年7月22日“BOLAN”としてインディーズレーベル『YEAH』からインディーズデビュー。ライブ活動を年間100本以上行なう。

 

その後、メンバーとの音楽性の相違により“BOLAN”を脱退し、新たなバンドを複数掛け持ちするなどして音楽活動を続け、その過程で五味孝氏、上野博文と出会う。1990年再び、青木と組む道を選び、他のバンドで活動していた五味と上野を迎え入れ、“T-BOLAN”を結成する。

 

以降、15枚のシングル10枚のアルバムをリリースし、シングル、アルバムの総売上は1700万枚。1999年12月、ベストアルバム「FINAL BEST GREATEST SONGS & MORE」、VHS「FINAL BEST LIVE HEAVEN~LIVE&CLIPS~」をリリース、自伝エッセイ「泥だらけのエピローグ」を発売、12月をもって解散。以降、音楽活動を休止。 

2009年11月18日オフィシャルHPにて音楽活動再開を発表。11月26日には神戸ワールド記念ホールで行われた「ベストヒット歌謡祭2009」にて復活のステージに立ち、12月25日にはCCレモンホールにて「SECOND BIRTH Christmas Fan meeting #00 絆」無料招待で集まったFANの前で復活のステージを行なう。

© 2014 by アッコルド出版

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