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ミラノの品評会で注目されたジュゼッペ

 

1861年9月28日、製粉場では水車の音とトルビド運河の水の音がごうごうと鳴り響く中、息子のジュゼッペ・フィオリーニ(Giuseppe Fiorini)が誕生した。

 

ジュゼッペは弱冠9歳にしてすでに工房に出て、バイオリンの渦巻き(スクロール)の部分を作るための木を切ったり削ったりして父の手伝いを始めていた。

 

そして、師である父の指導のもと、15歳で何本かのバイオリンを完成させた。

 

ジュゼッペは弦楽器製作が大好きで、かついい腕を持っていた。そして、父の工房を訪れる音楽家たちから様々なアドバイスを受け、古い楽器についてもその型や特徴を学ぶ機会を多く得て、積極的に吸収していった。

 

1876年から1886年にかけての10年間は父の元でさらにその腕に磨きをかけ、独立に至る時期である。特に、始めの5年間の成果としてはミラノのヴァイオリンの品評会に2本の作品を出品し、メダルを獲得したことが挙げられる。

 

さらに、この場で多くの音楽家から称賛を浴び、中でも巨匠バッツィーニ(Bazzini)にも注目されたことは大きかった。また、このミラノの品評会では、同時に故伯爵コツィオ・ディ・サラブエ(Cozio di Salabue)のストラディヴァリの遺品コレクションの初の展覧会も行なわれた。

 

若いフィオリーニはそのコレクションを丹念に見終えると、なんとかこれらを手に入れたいという気持ちに駆られ、譲り受けたいと申し出るが断られる。ところが、このころから、父ラファエルは、苦しく辛い弦楽器職人より、息子にはできればもっと安定した職についてもらいたいと考えた結果なのだろうか、今となってはその理由を知るすべもないが、息子の独立に反対するようになる。

 

そして、父ラファエルは、実際に息子の独立を阻止すべく、息子が作品を出品していたパリの品評会に出向き、審査員たちにその作品の未熟さを力説するも結局徒労に終わり、息子ジュゼッペのヴァイオリンはここでも評価され受賞するのである。

 

後半の5年にあたる1881年から86年までは独立に至る期間で、ジュゼッペはこの時期に父ラファエルの工房を離れ、自分の工房をサン・ステファノ広場に設ける。その後、1887年には、さらに歴史地区中心のサン・ペトロニオ広場の裏にあるガルッツィ広場4番に移る。

 

そのうち、ボローニャ市民にも腕前のよさが知られるようになり、名声が高まっていく。また、この時期は彼が古くから伝わるクレモナの楽器の型や音を忠実に再現する工程への研究に深くかかわった時期でもある。

 

そして、ボローニャで1888年に行われた国際音楽展示会において、品評会に出品された彼の作品は見事に一位の座を獲得する。さらに、この機会にジュゼッペはドイツの弦楽器職人アンドレア・リーガー(Andreas Rieger)と知り合い、ミュンヘンにある彼の工房に来るよう誘われる。そして、そこで初めは工房長として迎えられ、のちに共同経営者になるよう促されるのである。

 

ジュゼッペの念願、弦楽器職人養成所

 

ジュゼッペはリーガーの娘と結婚したことで、さらにリーガー家との縁を深め、1896年には会社を相続し、ミュンヘンを本拠地とするジュゼッペ・フィオリーニ社を経営するに至る。そして、25年の歳月を経て、ドイツ弦楽器協会の会長に就任、1911年に各紙から「近代弦楽器製作のパイオニア」と呼ばれてその栄誉は最高潮に達した。

 

その後、第一次世界大戦が勃発すると、ジュゼッペはチューリッヒに工房を移し、ユダヤの姓を持つ妻とともに疎開。そこに、20年代の初めには彼の一番弟子になるアンサルド・ポッジ(Ansaldo Poggi)がボローニャから訪れ、それを皮切りに彼との長い付き合いが始まることになる。

 

また、このころジュゼッペはようやくストラディヴァリの遺品の売買交渉を決着に導くことに成功。彼は、その遺品をクレモナの町に寄贈する代わりに弦楽器職人の養成所の設立を要請し、そこで彼が買い取ったストラディヴァリの遺品を主な教材として使うつもりだったのである。

 

ジュゼッペはまたこのころ弦楽器職人養成所の設立の実現に向けて、足しげくイタリアに通うようになっていた。しかしながら、当時クレモナで権力を握っていたファシストの市長ファリナッチ(Farinacci)はその実現に全く協力的ではなかった。

 

その後、ジュゼッペはローマの友人フレディ(Fredi)宅に短期間滞在したが、病を得、ミュンヘンで1934年にその生涯をとじた。そして、彼がストラディヴァリの貴重な遺品を寄贈しようと実現を夢見ていたクレモナでの弦楽器職人養成所の開設は、彼の死後4年を経た1938年にようやく実現の運びとなるのである。

 

イタリアン・ヴァイオリンの巨匠達3

オールドモダンヴァイオリンを中心に

イタリアンヴァイオリンの専門家として

世界中の音楽家、弦楽器製作家、鑑定家と

幅広い交流を持つパオロ・バンディーニ氏に、

ストラディヴァリ、アマティ、グアルネリの

大巨匠の後に続いた

1800年、1900年代の

イタリアン・ヴァイオリンの巨匠を

紹介していただくシリーズ。

フィオリーニ親子、

今回は息子・ジュゼッペ・フィオリーニ。

 

(読者からの質問も募集しています)

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パオロ バンディーニ Paolo Bandini

 

イタリアンヴァイオリン研究家&コンサルタント

 

イタリア・ボローニャ出身。

若くしてエミーリア・ロマーニャ州高等裁判所専属骨董宝飾品鑑定士を務め、古美術・宝石商をしていた20代の頃、ボローニャ派弦楽器製作の巨匠O.ビニャーミに出会う。

 

古美術・宝石商を続けながら弦楽器の芸術の世界に魅かれ、巨匠O.ビニャーミの下ヴァイオリン製作を学ぶ。13年間にわたるビニャーミとの厚い親交は彼の死まで続き、その間A.ポッジ、M.カピッキオーニ、C.ポッラストリ等、歴史に残る多くの偉大な製作家とも交流を深め、オールド・モダン・ヴァイオリンの研究、専門家としての道を歩み始める。

 

イタリア弦楽器製作に関する研究、多くの書籍の原稿を手掛ける他、ピエモンテ州後援「イタリアンヴァイオリンの巨匠達」DVDを監修。

 

ミラノ・G.ヴェルディ国立音楽院より特別講師として招かれる等、イタリア各地で「イタリアンヴァイオリンの歴史と選定の仕方」講演会を行なう。

 

2006年、世界初の弦楽器インターネットオークション“Da Salo”の創設者の一人として注目を集める。

 

カッリガーリコレクションの保管者として多くの若手音楽家に弦楽器貸与を行い、イタリアを代表するヴァイオリニスト、U.ウーギ、S.アッカルド他、V.ムローヴァ、M.ブルネッロ、ヨーヨー・マ、G.ソリマ等と交流を持ち、多くの音楽家からイタリアンヴァイオリンの専門家として厚い信頼を得ている。

 

イタリアンヴァイオリンについてのご意見ご質問は下記のメールでお受け致します。

(日伊英3カ国語対応)

paolobandini@hotmail.it

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