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いつも、そう勤勉な訳ではないが、
データを集めたり、それをリストにしたり、
リストに挙がった人物や項目について詳しく調べたり、
そういった地道な作業は、結構好きである。
ヴァイオリンを練習するときとは、少し違う感覚。
そう、楽譜を見るとドーパミンが出て、
文字を見るとセロトニンが出る、そんな感じ。
心穏やかな、充実した時間。しかも、ときには、
思った以上の成果を得ることもあって、止められない。
人名、生没年、生誕地、活動地、肩書、作品。
それら一つずつには見過ごしてはいけない意味や背景がある。
だが、目に映るアルファベットや数字が持つ“無機質さ”が、
そういった重く深いものを、一旦スルーすることを許してくれる。
そうでなければ、押し入れの片付けのように、
一つ一つに囚われて、いつまでも整理できずにいるだろう。
リストにすることによって、単体では見えなかったものが、
個々の持つ意味とはまた違った時間や空間が、流れや繋がりが見えてくる。
時代の潮流、生活の変化なども感じられて、そこはかとなく楽しい。
とはいえ、作業は思いの外、労力と時間が必要だ。
幾つものテーマを並行して、時間があるときに少しずつ少しずつ。
だから、捗らないテーマも少なくない。
ふと、一番捗っていないリストは何だろうと考えてみた。
ああ、これだ。『女流ヴァイオリニスト』のリスト。
☆
ある日思い立って、ヴァイオリニスト一覧を作った。
一人ずつについて調べ始めた。すると気付くのである。
「女流ヴァイオリニスト」という言葉があることに。
解説に「彼女は当時では珍しい女性のヴィルトゥオーソで…」
なんて一文が加えられていれば、気にならない訳がない。
ひと時代昔のことを考えると、確かに、
女性のヴァイオリニスト、少ない?
これは、別にリストを作らねば!(笑)
それやこれやで始めた“女流ヴァイオリニスト”のリスト作成だが、
これがなぜか、ちっとも進まない。調べ始めた頃はネットもなく、
データ入手が難しかったのもある。図書館に行って、
目に付く資料を片っ端から調べる位しか方法がなかった。
資料自体も少ない。見つからない。なかなか手に入らない。でも、
どうも理由はそれだけではない。気が乗らないというかなんというか。
ぐずぐずしているうちに、『ネットで検索』の時代に突入。
出ました!“List of female violinists” 神様・仏様・wiki様。
鵜呑みにできないとしても、取っ掛かりの情報としては十分。
リストを眺めて、思う。「え?こんなにいたの?」
必死で書き溜めた自分のノートが恥ずかしい。
リスト片手に、事項・事実の確認、浅堀&深堀すべく、
勢い込んで調べ始めるが、これがまた長く続かない。
こんなに仕事が進まない理由は何? 何っ?
しばしリストを眺める。考える。ひどく数が多い訳ではない。
明らかに気分的なものだ。充たされない。虚しくなる。
それぞれが単発に過ぎて、大きな流れも見えず、世界も広がらない。
それぞれの項目も、手元にある内容の浅い資料では、
そこに生きた人々の“人間”を感じられるところまで行けない。
あるはずのものがない。見えるはずのものが見えない。
出来上がったものは、いつまで経っても、
ただ単なる“女性ヴァイオリニスト”の「リスト」。
そうか。「ない」ことが問題なのか。
注目すべきは、そこなのだ。なぜ「ない」のか。
なぜ「繋がらない」のか、なぜ「広がらない」のか。
☆
資料としている図書の著者たちが、記録がないことを嘆いている。
実際のところ、女性のヴァイオリン奏者は少なかったのだ。
時代が、国が、社会的状況が、土地柄が、家庭的環境が、
女性の“ヴァイオリニスト”を生むことを拒んでいたのかもしれない。
女性の“プロのヴァイオリニスト”を欲していなかったのかもしれない。
教育現場が、聴衆が、彼女たちを受け入れなかった。
よしんばその活動が認められ、絶賛されるまでに至ったとしても、
演奏旅行の厳しさが、彼女たちに諦めを、ときには死をもたらした。
結婚&子育てのために、成熟を待つことなく引退を余儀なくされた者もいる。
様々なプレッシャーやハラスメントに耐えられなかった者もいるかもしれない。
教育者という選択肢を得られた者が僅かだったことにも一因があるだろう。
弟子がいなければ流れはできず、その名も受け継がれない。
“女流”という言葉を差別用語だとする意見があるらしい。
一部の業界を除いて、「特に必要なとき以外は使わない」
「文脈によっては使わない方がよい」、そういう用語なのだと。
なぜ? 「そもそも女流という言葉には『男性が支配していた世界に足を踏み入れた(実力不相応な)女性』といったニュアンスが込められていた」…ううむ。
ありがたいことに、現在の我が業界においては、良くも悪くも、
最も重要なファクターは、技量(音楽的なことを含めての)。
「実力差」で判断されてしまう局面、対応は少なくないが、
そこに「性差」が持ち込まれることはまずない。
あ、でも、こんなことはあったな。あるパーティの仕事、
「BGMを弦楽四重奏で」というオファー、但し書きがこうだった。
「全員若い女性でお願いします。ロングドレス着用のこと」(苦笑)。
☆
ヴァイオリン弾きは知っている。
18世紀、イタリアのヴェネツィアに女性オーケストラがあったことを。
モーツァルトがストリナザッキという女性ヴァイオリニストのためにソナタを書き、共演したことを。
ミラノッロ姉妹の姉テレーザが、パガニーニが演奏していたストラディヴァリ(1728)を弾いていたことを。
だから、何かの折に「女性ヴァイオリニストの名を聞く機会が少ない」
そう感じることはあっても、「女性ヴァイオリニストがいなかった」
とは誰も考えない。そして、それは正しい。
―ヴィヴァルディも教えた、ピエタ慈善院付属音楽院付きオーケストラ
ヴェネツィア共和国にはピエタをはじめ、インクラビリ(救貧院)、メンディカンティ(元来は12世紀にハンセン氏病患者のための施療院として建てられた)、オスペダレット(捨て子養育施設)の4つの慈善院に附属音楽院が併設され、そこの女性合奏団&合唱団のコンサートの収益が各施設の運営を支えていた。
―レジーナ・ストリナザッキ Regina Strinasacchi(c.1761-1839)
公的な場面で女性がヴァイオリンを演奏することが稀な時代にあって、ヴァイオリン・ヴィルトゥオーソとして活躍した。1780~1783年にヨーロッパツアーを行ない、1784年(c.23歳)にはウィーンに訪れている。
モーツァルト(28歳)1784年4月24日付の父への手紙
「マントヴァの有名なストリナザッキ、非常に優秀なヴァイオリン奏者ですが、今当地に来ています。彼女の演奏にはとても趣味と感情が溢れています。ぼくは今、ソナタを書いていますが、これを木曜日に彼女の演奏会で共演します」
このとき書かれたのが、ヴァイオリン・ソナタ 変ロ長調 K.454。
―テレーザ Teresa(1827-1904)&マリア・ミラノッロMaria Milanollo (1832-1848)
イタリア、ピエモンテ出身。「マドモワゼル・スタッカート(Maria)」と「マドモワゼル・アダージョ(Teresa)」というニックネームで、ヨーロッパ各地を巡業、国際的な名声を得た。マリアは16歳の時、結核で死ぬが、テレサは30歳まで演奏会を行なった。姉妹は3台の有名ヴァイオリンを所持していた。=〈ストラディヴァリウス(1728)“Milanollo”〉〈ルジェーリ(1680)マリアが使用〉〈ストラディヴァリウス(1703)〉
音源がない時代。ソリストとして生きていくためには、
地元のコンサートで知名度を上げ、ツアーに出て更なるコンサート収益を得るしかない。
新聞や音楽雑誌に載る評が、そのヴァイオリニストの人生を左右することも。
聴衆の好みもあっただろう。奏者同士の競争もあっただろう。加えて、
時間による篩落とし、これらを経ての“ヴァイオリニスト・ヴィルトゥオーソ”
ましてや。
☆
「女性がヴァイオリンを弾くなんて」というヴァイオリン界にあった女性蔑視。
「淑女がヴァイオリンを弾くなんて」という考えもあったらしい。
あのシュポアが、そういった理由で、妻がヴァイオリンを弾くことをよしとしなかったというのだから面白い。
時代が“女性ヴァイオリニスト”を享受し始めたそんな時代にあっても、
未だ厳しい現実に身を置く女性達―その中でその名を、音源を残すことができた強者。
有無を言わさず世間を認めさせた演奏を、一度は聴いてみるのもよいだろう。
そうして聴く演奏はみな技術的には優等生の演奏、でもそれぞれ非常に個性的である。
―モード・パウエル Maud Powell (1867-1920)
イリノイ州ペルーで、アメリカ人の父とドイツ人の母の間に生まれた。
4歳でピアノを習い、8歳でヴァイオリンのレッスンを受ける。
その後ライプツィヒ音楽院でシュラディックに、パリ音楽院でダンクラに、ベルリンの音楽大学ではヨアヒムに学ぶ。
1885年、ヨアヒム指揮のベルリン・フィルハーモニックのコンサートでデビュー。たちまち国際的な名声を博す。
世界を巡り、当時の最も優れたヴァイオリニストの一人として批評家たちから絶賛された。自らの弦楽四重奏団を持った初めてのアメリカ婦人でもある。
彼女は遺言によって自分のガダニーニを「次の偉大な女流ヴァイオリニスト」に譲るとし、その楽器は1921年に16歳のエリカ・モリーニに贈られた。
―マリー・ホール Marie Hall (1884-1956)
国際的な評価を得た、英国初の女流ヴァイオリニスト。
幼い頃から才能を発揮し、幾度か勉学のチャンスを与えられるが、財政的な問題でそれを活かせず、最終的にクーベリックの薦めでプラハのセヴィシックに師事。
セヴィシックは「彼女ほどの才能ある弟子を未だかつて育てたことがない」と語った。世界各地で演奏旅行をし、至るところで「女王のような扱い」を受けたという。
ヴォーン・ウィリアムズ《あげひばりThe Lark Ascending》は彼女のために書かれ、彼女の演奏で大成功を収めた。
彼女が演奏していたのは〈ストラディヴァリ(1709)“Marie Hall-Viotti”〉。
―アディラ・ファキーリ Adila Fachiri(1889-1962)
ハンガリー人の女性ヴァイオリニスト。
妹イェリー・ダラーニと共に、イングランドを拠点に演奏活動を行なった。
ブダペスト王立音楽アカデミーで初期音楽教育を受け、10歳よりフバイについてヴァイオリンを学び始め、17歳でディプロマを取得すると、ベルリンに留学して大叔父ヨーゼフ・ヨアヒムに師事。
ロンドンでの定期的な演奏活動に加えて、世界主要都市で公開演奏を行なった。
ヨアヒムの形見のストラディヴァリの一つを相続。
―イェリー・ダラーニ Jelly d'Aranyi(1893-1966)
当初はピアノを学ぶが、フバイに師事したのを機にヴァイオリンに転向。
世界各地で独奏者&室内楽奏者として演奏旅行を続けた後、ロンドンに定住。ベラ・バルトークと共演してロンドンやパリでリサイタルを開く。
バルトークの2つのヴァイオリン・ソナタは姉アディラに献呈されているが、ロンドンでの初演はどちらも作曲者自身のピアノとイェリーのヴァイオリンで行なわれた。
ラヴェルはピアノ伴奏版の《ツィガーヌ》を、ヴォーン・ウィリアムズは《ヴァイオリン協奏曲ニ短調》をダラーニに献呈している。
―エリカ・モリーニ Erika Morini(c.1904-1995)
オーストリア出身のイタリア系ヴァイオリン奏者。
ウィーンに生まれ、私立の音楽学校を経営していた父親からヴァイオリンの手ほどきを受け、8歳でウィーン音楽院に入学、セヴィシックとローゼンフェルトに師事した。
「わたしは幸いにも、父を通じてグリュンとヨアヒムの右手のためのメソッドを、セヴィシックの左手のためのメソッドの知識を得ました」
1916年にニキシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演してデビューを飾る。1921年にはニューヨークでデビューを果たし、モード・パウエルの愛器ガダニーニを贈られた。1938年にアメリカに移住し、1976年に引退するまでここで演奏活動を続けた。ニューヨークで死去。
「自分はブラームスのヴァイオリン協奏曲をこのウィーン女性のように演奏したいものだ」とフーベルマンに言わしめ、カザルスは「エリカ・モリーニは音楽の天使である」と言った。
☆
男であれ女であれ、老人であれ若者であれ、
せっかくそうあるのだから、「らしさ」は大切にするといいかなと思う。
それは、武器にもなり、個性の一部にもなる。
誰も、「それ」が欠点になることを望んではいない。
大体、誰もそんなことを気にしてはいない。
ヴァイオリン弾きが望むのはただ、ヴァイオリンと一体化することだけ。
音楽に関心を持ったのはいつかと聞かれ、モリーニはこう言ったという。
「わたしは音楽と共に生まれました。それは呼吸のようなものです」
まだまだ、語りたい女性ヴァイオリニストがいる。
でも本日はここまで、ということで。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第115回
ヴァイオリニストのリスト
David Oistrakh - Mozart - Violin Sonata No 32 in B flat major, K 454
Maud Powell - Mignon: Gavotte (par Sarasate)
Marie Hall- Ries, Perpetuum mobile op.34
Maud Powell - Dvorak: Humoresque
Marie Hall - Sarasate/Jota Aragonesa, Op 27
Erica Morini 1957: Brahms / Violin Concerto in D, Op. 77
Erica Morini "Caprice Viennois, op 2" Kreisler
Jelly D'Aranyi plays Vitali : Chaconne
Jelly d'Arányi & Adila Fachiri - Bach Violin Concerto in d minor BWV 1043.
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