ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第141回
スコアリーディングは必要ですか?
スコアリーディング。
『スコア(総譜)を読む』という作業。
「スコア読まないとダメですかねぇ?」
「やっぱりスコアリーディングは必要ですか?」
こういう質問は多い。ただ、これらの質問も大抵、
この答えを予期してのもののような気がする。
—スコアは読まないと、ダメです。
—スコアリーディング、必要です。
スコアリーディングはした方がいい。
その曲について知りたいなら。
その曲をもっと理解したいなら。
でも、一番大切なのは多分、
どれ位読めているか、とか、
どれ位理解できているか、とか、
そういうことではなく、
まずは、それが必要だと知っていること、
なぜ必要なのかを知っていることではないか、
最近、強く、そう思うようになった。
しなければいけないから、するのではなく。
あなたが好きだ、
あなたのことを知りたい、
あなたをもっと理解したい、
そういう楽曲への気持ちが、
『スコアリーディング』という一つの手段を選ばせるのだ、と。
それでも、した方がいいよ、
という後押しが必要なら、何度でも言葉にして贈ります。
—スコアリーディング、必要です。
☆
長くこの世界にいながら、スコアなるものを手にしたのは、
音大に入って、オーケストラを学び始めてからである。しかも、
オーケストラ初心者の仲間内でも若干遅れてのこと。だって、
オーケストラ曲を勉強する時にスコアが必要だなんて、
誰も教えてくれなかったんだもん!(そりゃそうか…)
ある日、友人達とオーケストラの授業について話していて、
何かの拍子にスコアの話になり。スコアを持っていないと言った瞬間の、
周囲の反応が忘れられない。「え? 嘘でしょ? スコア持ってないの?」
という無言の驚愕。穴があったら入りたい、できるだけ深い穴に入りたい、
穴の底で埋もれてしまいたい、…恥ずかしさで息が詰まりそうだった。
スコアリーディングについても、誰も積極的には教えてくれない。
必要に迫られて仕方なく、(情けないが当時はそんな感じだった)、
カリキュラムにあった〈スコアリーディング〉の授業を取ってみた。
これが、初心者には難しかった。何しろ、その内容は
単なる「スコアの読み方」などではなく、大作曲家の先生による、
ベートーヴェンの『運命』の詳細な分析だったのだから。
音大生とあろうもの、スコアは「読めて」当然、
〈リーディング〉はその先のものであると? はあぁ。
移調楽器が読めないから、和音が瞬時に読み取れない。いや、
まず、メロディラインがどこにあるのかすら分からない。いやいや、
それ以前に3段(Violin & Piano)以上の譜面が一度に視野に入らない。
音源を聴きながら必死でメロディを目で追うが、すぐ落ちる。
各楽器の音が(特に管楽器は耳慣れなくて)、きっちり聴き分けられない。
大体、ページの「めくり」が多過ぎて、全体像が掴めない!
誰が何をしているのか?
誰に何が要求されているのか?
そのレベルで、そんなことが分かろうはずもない。
☆
思い出した。
現在の師に習い始めて、初めての協奏曲の課題のときに、
「スコアを勉強しておいてね」、そう言われたはずだ。
師の言葉は絶対だったから、スコアも買ったはずだ。
ならば、勉強もしたはずだ。うぅむ。なぜ、記憶にない?
あのときは、一体何を「勉強」したんだろう…。
それが、〈ヴァイオリン協奏曲〉で、
ヴァイオリンが主役として書かれた曲だったとしても、
それが、〈ヴァイオリンのための小品〉で、
ヴァイオリン主体で書かれた曲だったとしても、
無伴奏のように、一人で完結する楽曲でなければ、
そこには必ず、自分以外の音がある。
つまり、どんな場合でも“自分”は楽曲の一部なのだ。
自分のパートだけ勉強していて、それでよいはずがない。
それは、何人もの出演者がいる舞台に立って、
自分の台詞しか覚えていないようなものだ。
「きっと、他のみんなが何とかしてくれる」
それはまさに、誤用のままの『他力本願』的発想。
そんな気持ちじゃ、阿弥陀様でも救って下さらない。
いつ、どこで、どう音を出せばよいのか、
他の楽器とどう絡めばよいのか、どう渡り合えばよいのか、
自分以外の楽器は何をしているのか、
大体、今“自分”は何をしているのか?
☆
まだまだ学生気分抜け切らぬ時分に、
可愛がって下さっていた先輩からのお声掛けで、
あの鈴木輝昭氏の弦楽四重奏曲を弾かせてもらうチャンスがあった。
他のお三方は既に活躍中の、格の違うプロの方達、
今思えば、ずうずうしくもよく引き受けたものだと思う。
本番は確か、学内の新曲発表会のようなものだった。だから、
曲は出来立てのほやほや。手渡された楽譜は手書きのスコア。
感動!感動!感動! でも、次に押し寄せてきたのは深い後悔。(笑)
練習意欲はあるものの、もちろん音源などある訳なく、
頼りは目の前にある“スコア”だけ。
スコアで弾くこと自体が稀、全然慣れていない。
でも、そんなこと、言ってられない。
最初は、自分が弾くヴィオラ・パートばかり練習していたが、
はたと気付く。いくら、スコアで演奏するとはいえ、
他のパートが何を弾いているかを、自分の役目は何なのかを、
ちゃんと分かって弾かないとまずい、ということに。
最初の聴き手は、書かれた作曲家ご本人。
一音たりとも、「嘘」を弾く訳にはいかない。
共に演奏して下さるのは、大先輩たち。
自分が落ちたりして、練習を止める訳にはいかない。
いつになく真剣に練習をし、必死でスコアを読み込み、
それこそ眠れぬ夜を過ごし、胃痛と共に迎えた初練習。
未だにそのとき使った教室や、練習風景をハッキリ覚えている。
当日、そんなに結果が出せていたとも思えないのだが、なぜだろう、
楽しかった記憶しかない。ワクワクした。ゾクゾクした。
百戦錬磨の先輩たちといえども初演の曲、味噌っかすもいるし、
一回目の通しが、作者にとって満足いく出来であったはずはない。
それでも、それを聴く氏は本当に嬉しそうだった。その笑顔を見て、
演奏の、演奏者の何たるかが少し、ほんの少しだけ分かった気がした。
その後の作業は、さらに楽しかった。
演奏のニュアンスが意に沿ったものでないと、
そこはこう弾いてほしいと、作曲者自身から明確な要求がなされる。
場所によっては、なぜそう書いたのかという説明もなされる。
一音一音に意味がある。書かれていること全てに意味がある。
足りないものはない。余分なものもない。それを、
頭で、身体で、心で知ると、なぜかとても幸せな気分になる。
そうして、理解する。楽譜の意味を。
感じる。楽譜の中に隠された何かを。その重要性を。
演奏者としての、自身の役目の重さに慄きもした。
楽譜に命を吹き込む作業、それは人体錬成に匹敵する難しさ?
錬金術の原則が等価交換なら、ヴァイオリン弾きが差し出すのは何?
☆
考えてみれば、
ヴァイオリンとピアノで演奏するとき、ピアニストが使用している、
あの見慣れた〈ヴァイオリン+ピアノ譜〉も“スコア”である。
ピアニスト、自身のパートは完全に把握している。
その上で、ヴァイオリンパートを確認しながら演奏している。
さて、ヴァイオリン弾きは?
発表会があって、その練習で初めて知るピアノパート!的な?
ピアノ譜が読めることは、強みなのだと知った。
スポーツ選手が、他のスポーツを楽しむように、
(自分のスポーツの練習が合理的・能率的になったり、
ケガをしにくくなったりするという研究結果が出ているらしい)
他の楽器を楽しむことは、よいことなのかもしれない。
「スコアは読めた方がよいよ」、そう言うと、
「実はボク、楽譜が読めないんです」と返されたことがある。
「へ音記号やハ音記号を見ると吐き気がします」
「移調楽器の楽譜を読もうとすると頭がガンガンします」
それ、分かる。すごく、よく分かる。(笑)
でも、最初から多くを望まなければ、何とかなるものだ。
自身、ヴィオラ譜(ハ音記号)が読めるようになったのは大学から。
移調楽器なんて今でも「感じ」で読んでいる。(ごめんなさい!)
そこにあるのは音符であって、難解な言葉ではない。
小難しい哲学書を読め、それを理解しろ、というのとは少し、
いや、大きく違う。そういう難しさはない。感覚で読める。
英語を学ぶとき、文章の意味や内容を考えなくていいから、
何度も繰り返し読め、そんな風に言われた記憶がある。
多分それと同じ。
声(音)に出さずとも、見るだけでも違う。
取り敢えず、眺めることから。
漠と見るのもよし、音源を聴きながらメロディ探しに興ずるのもよし。
ピアノが弾ける人は、ピアノ譜を弾いてみるとよいかもしれない。
ポロポロでいい。楽譜を見て「弾こうとする」ことが大事だ。
合奏形態で勉強しやすいのは、何と言っても弦楽四重奏曲。
ハイドンやモーツァルトのそれは、スッキリしていて、
基本に忠実だから、とっつきやすく、分かりやすい。
オーケストラに参加している人は、
自分が乗っていない曲の合奏練習をスコア片手に聴くのもいいだろう。
ときには、トレーナーの気分で。ときには、指揮者の気分で。
☆
父を亡くして後、父のことを何も知らない自分に気付いた。
もしかすると、モーツァルトについての方が詳しいかもしれない(笑)。
生前、父についてのあれこれを知りたいと思ったことがない。
愛情いっぱいに育ててくれる「今」の父がいれば十分だったのだろう。
日常的には、
演奏する楽曲に対して、その作曲者に対して、
それに近い感情・感覚で接しているような気がする。
そして、それでいいような気もする。
ただ、残念なことに、
楽曲や作曲家と自分との関係、と考えると、
その関係は一方的なものであることは間違いない。
しかも、こちらからの。
そこにあるのは、遺書のような楽譜だけ。
それ以上のものを、相手が与えてくれることはない。
音源という形でヒントをくれる演奏家はいるけれど。
文献という形で助言をくれる研究者もいるけれど。
真摯な気持ちで楽譜に向き合ってみる。—この気持ち、届くだろうか。
「仕方ないな。そんなに弾きたいなら、弾いてもいいよ」
「バカだなぁ、こう弾くんだよ、分かる? そう、いい調子だ」
そんな楽曲の声が聞こえるようになったら、きっと嬉しいだろうなぁ。
…なんて、スコア片手に夢見る今日のヴァイオリン弾きである。