20世紀最大のヴァイオリニストのひとり、ヤッシャ・ハイフェッツが、『音階練習』を尊重していたことはよく知られているが、このベールに包まれていた音階練習の実際の中身というものを愛弟子である世界的ヴァイオリニスト、ピエール・アモイヤルさんが明らかにしてくださる。
ハイフェッツの音階練習の意味と意義を語ってくだった。
通訳は、アモイヤルさんの愛弟子であるヴァイオリニストの尾池亜美さん。
『ハイフェッツの音階練習』ができた経緯
「ハンガリーのヴァイオリニストであるフリマリーは、彼の音階練習において、調性記号を一つずつ増やしていくといった順番の音階練習にしました(ハ長調→イ短調→ヘ長調……)。ハ長調→ハ短調……といった順番ではありません。ピアノの音階練習のハノンと同じです。
それをもとにアウアーが和音で練習することを考案し、さらにハイフェッツが磨きをかけました。つまり、この音階練習はフリマリー、アウアー、ハイフェッツと受け継がれて来たものなのです。
ハイフェッツはこれを、とても個人的に気に入った人にしか教えませんでした。私はその宝物のような音階システムを授かったのです。
私はこの音階を今日の人々に伝えることに使命感を感じています。私自身はこの音階の基本には何も手を加えていませんが、時々リズムを変えたり、弾いている曲に応じてポジションを少し変えたり、自分のためにアレンジしながら練習しています。
例えばラヴェルのツィガーヌのG線の高いポジションのためには、G線から音階を始めて移弦をせずに高いポジションまで行く練習をします。
ハイフェッツの音階練習は調性をどんどん変えていくことに焦点を当てています。実際コンチェルトなどを演奏すると、ずっとB durで10分以上弾いたりはしないです。すぐ他の調に転調して行きます。
だから同じ調ばかりを練習するのでは意味が無いのです。転調の練習もしなくてはいけない。ということで、1時間以内の練習で、出来るだけ全ての調をカバーすることが大事です。さらにそれを和音で、ゆっくりのテンポで、音程を聴きながら練習します。これが、ハイフェッツの音階練習の大きなポイントなのです。」
和音で練習することの
メリット
「同時に2音押さえることで左手の形を安定させることができます。1音だけの場合、押さえる指が1本で簡単なので、ほかの3本の指が余計な動きをしたり、余計な力を入れたりしかねません。
3度の重音では〈指番号〉13、24と押さえることで、指が1本1本別々の行動をとらず、チームを組んで正しい手の形を作ることができます。
6度なら12、23、34。そしてポジション移動の練習にもなります。オクターヴやフィンガー・オクターヴはあらゆるコンチェルトに出て来るので大変重要です。
10度も最も難しいコンチェルトに出てきます。3度、6度、オクターヴ、フィンガー・オクターヴ、10度を、長調、和声的短音階、旋律的短音階を合わせた21音階分、練習します。それがハイフェッツのやり方です。指使いやシフトの場所にも、原則があります。
レベルに応じて、さまざまな使い方が出来ます。調整すべき点は、転調の速さです。初心者の方は、まずひとつの調が出来るようになるまで時間を掛け、その後、次の調に移れば良い。一つ一つの音もゆっくり弾いていきます。そうすれば最初に1週間かかったものが、一年、二年とやっていくうちにどんどん短い時間で出来るようになっていきます。
和音の練習を載せた時点で、おそらくプロ向けの仕様になりますが、日本でたくさんの生徒を見てきて、日本の先生方のおかげで、若い人も早いうちから高いレヴェルの技術力を持っていることを知っていますので心配していません。
逆に、上級者はひとつの音階を一往復したら次の調へ移行します。そして全ての調を一度に網羅するのです。いったいどれだけの『プロのヴァイオリニスト』がDes durのフィンガー・オクターヴなんて練習したことがあるでしょうか。演奏していくからには、どんな調も出てくる可能性があります。例えばショーソンの詩曲にも難しい調がたくさん出てきます。
また難しい調を練習することで、簡単な調もさらに上達します。」
様々な逸話
「ハイフェッツとの思い出は数限りなくあります。例えば、こんな話があります。
若いとき私は本当はオイストラフに師事する予定だったのです。しかしハイフェッツに『私の所で勉強しないか』と誘われて、私は両巨匠の間でどのような判断をしたらいいか分かりませんでした。
それで師事する予定でいたオイストラフに『僕はあなたにも習いたいが、ハイフェッツにも習いに来いと言われたんです』と打ち明けたところ、彼はこう答えました。
『僕はいま58歳だが、もしハイフェッツに習えるんだったら今からでも行くね』と。
そして私はハイフェッツのもとへ行くことになったのですが、待っていたのがこの膨大な音階練習でした(笑)。
『じゃあここでGes durで10度の音階を弾け』と言われて、いきなり知らない外国語を喋れ、と言われたような気分だったこともあります(笑)。
ある時、生徒がコンチェルトをレッスンで弾こうとした時のことですが、ハイフェッツはまずそのコンチェルトの調の音階を弾かせたんです。生徒が一つでも音を間違えると、『残念だが、君はこの調で音階も弾けないのだから、このコンチェルトも弾けないよ』と言っていました。
その他にも、ハイフェッツとの室内楽など、とても興味深い話がたくさんありますので、そのような話を交えながら音階練習の紹介をしていきたいと思います。」
次回より、実際の音階練習へ。
イントロダクション
ピエール・アモイヤル校訂
ハイフェッツの
音階練習
ヤッシャ・ハイフェッツ
ピエール・アモイヤル
尾池亜美&ピエール・アモイヤル