今日のグルーヴ〈178〉
ある音楽的意図を実現するためには、自分の技量と自分が意図していたものとの相関関係を一応疑ってみた方が良い。
あるいは楽典の歴史的背景を探り、さらには、楽譜を変えてみることも必要になるかもしれない。
例えば、我々は、とりあえずます、楽譜通りに演奏しようとする。しかし、結果的に楽譜通りではない、あるいは作曲者が意図しないものになってしまうことがある。
自分では、楽譜通りのつもりなのに、聴く側からは、楽譜通りと受け取ってくれないことが多々ある。
その原因は、自分は楽譜通り音を出しているつもりが、技量が足りないから、楽譜通りになっていない場合、あるいは、使う技術を間違えているか。
さらに言えば、作曲家の表記の仕方が誤解を招く場合がある。
作曲家の表記で言えば、例えば、クラシックの演奏家は、付点8分音符と16分音符の組み合わせがあると、金科玉条の如く、3対1の比率で付点8分音符と16分音符を演奏しようとする。
2対1で演奏しようものなら、鬼の首を取ったかのような勢いで、それを指摘する人がいる。
しかし、これには大きな問題が含まれている。
ブラームスあたりまで、3連音符の表記の仕方が無かったために、作曲家は、3連音符のリズムを付点8分音符と16分音符の組み合わせの表記で代用していた可能性があるのである。
であるとしたら、3対1でなく、2対1で演奏すべき箇所もあるということだ。
もっと言えば、そもそも、3対1の比率とか2対1の比率といっても、そもそも完璧にその割合にはできないし、さらにもっと言えば、3対1とか2対1ですら怪しい。
音楽家、作曲家、演奏家には、ニュアンスや癖、そして互いに異なったグルーヴというものがそもそもある。
であるから、この意味においても楽譜はメモだと思った方がいい。演奏家は、楽譜から解放されるべきである。
今日もグルーヴィーな一日を。