今日のグルーヴ〈456〉
現在、クラシックの聴衆は圧倒的に高齢者が多いが、彼らの会話を聞いていると、本当に音楽が好きで聴きに来ている人達とはとても思えないことが多い。暇つぶしの教養主義が見え隠れする。
クラシックという言葉には、どういうわけか教養主義がついてまわる。
しかしクラシックは現代音楽の歴史である。ゆえに、どの楽曲も、その精神は、当時におけるロックであったはずである。
歴史に残った現代音楽が素晴らしい作品であることには間違いない。しかし歴史にした瞬間、クラシックというレッテルを貼られ、ロックの精神、グルーヴが去勢されてしまうように思えてならない。
さらに言えば、クラシック音楽を聴くとき、本当に自分の耳で聴いているのだろうか。
ネームバリュー、外国人、コンクール、見栄え、評論、といったもので聴いているのではないか。
ポップスやロックや歌謡曲等を好んで聴く人の大多数は、まず間違いなく自分の耳で聴いて好んでいる。クラシック音楽には見向きもしない。
これらの原因の根底にあるのは、私の世代より少し下くらいまでは、日本の学校音楽教育であると言いたい。これを言い出すと、明治時代の音楽取調掛まで溯る。
義務教育で圧倒的にクラシックを扱っているにもかかわらず、人々は、圧倒的にロックやポップスを聴く。結果的に育てているのはロックやポップスを聴く人達で、クラシックは敷居の高いもの、という印象を植え付けることには“成功”している。
結果、人口としては、圧倒的にロックやポップスや歌謡曲の聴衆の方が多く、クラシック人口は少ない。その少ない人口の中でも、自分の耳で聴いている人はさらに圧倒的に少ない。
生涯クラシックと付き合ってきたような人でも、自分の耳で聴いている人は少ない。
本当に音楽が好きな人は、ジャンルを問わず、誰彼に言われなくても自分で聴いていく。ロックを学校音楽でほとんど扱わないにもかかわらず、圧倒的にロック人口が多いということが、それを証明している。
それでも、かろうじて真にクラシックが好きな人達は、生き残っていく。しかし断じてクラシックを教養や権威の手段にしてはならない。